いつか"福島"を取り戻せ。〜クラシコ特典映像によせて

クラシコ [DVD]

クラシコ [DVD]

 特典映像『Re:Clasico~フクシマから遠く離れて~』 奇しくも“3.11”の東日本大震災の翌日に東京公開を向かえ、サッカーファンの間で口コミで広まっていった本作が、被災地・福島で上映されるに至ったドラマを綴った『Re:クラシコ~フクシマから遠く離れて~』を、DVDの特典映像として収録!

サッカーファンの間で大きな反響を巻き起こし、
各地で自主上映会の動きも広がっている
北信越リーグでの信州ダービーを題材とした映画、「クラシコ」がDVDになりました。
特典映像には、震災による原発事故の影響を大きく受けた
福島のサッカーを取材した映像が収録されています。
「フクシマ」という表記が地元福島であまり受け入れられていないため、
タイトルに否定的な意見もあります。
私自身もあまりカタカナ表記は好きではありません。
しかし、今年の福島のサッカーを映像化していただいたことには
大きな意義があると思っています。
地震津波に加え、放射性物質による汚染によって、
福島のサッカーは大きなダメージを受けました。
この先も長く影響を受け続けるでしょう。
福島の置かれた状況に関心を持ってもらうことはまだまだ必要です。
このDVDで1人でも多くの方に福島のサッカーについて関心を持っていただくことを願っています。


震災や原発事故以前に、クラシコの舞台となった信州の両クラブのライバル関係と、
よく言われる福島県内対立は、
サッカーにおけるライバル関係の成功例と失敗例として対照的でもあります。
ライバル関係をサッカーを盛り上げるモチベーションに変えた信州。
福島県内にまとまりがないことをサッカーが盛り上がらない理由にしつづけてきた福島。
DVDを見る方は、原発事故ばかりでなくそういう部分にも想いを馳せていただければと思います。


今の福島でサッカーをすること、続けることは簡単ではありません。
サッカー以前に、ここで暮らしていいのかどうか
いまだに悩み続けている方も少なくありません。
それでも、それだからこそ、福島の抱えた困難と向き合うために
サッカーが果たす役割があると信じています。

いつか「おかえりなさい」という日まで。


1997年12月14日。
福島FCが日本のプロサッカークラブとして最初に解散してしまった日だ。

それから14年後の今年、原発事故の影響でたくさんの人たちが福島を離れた。
プリメーロの選手も、何人か避難のために退団することになった。
長年にわたってプリメーロのために力を尽くしてくれた選手たち。
プレーはもちろん、精神的にもいつもチームを盛り上げてくれた。
こんな状況だから、ちゃんとお別れをすることも出来なかった。

今年、プリメーロはリーグ戦に参戦することができなかった。
福島FCの解散とリーグ不参戦。
私たちのサッカーは二度、その火を途絶えさせることとなってしまった。

一度目に消えた火は福島FCの選手や関係者たちが福島のサッカー界の育成に携わり、アマチュアとしてプレーを続けることで再び燃え上がる事ができた。
二度目に途絶えてしまった火も、再び燃え上がらせなくてはいけない。

福島を離れた仲間に、元気でやっているよと伝えるために。
いつか、福島を離れた仲間が再び帰ってきた時に、「おかえりなさい」と言うために。

また再び、走りはじめよう。

福島の地で、放射線の中でくらしていくということ。

郡山市に住んでいる私(30代独身おんな子どもなし)が
放射線に対して自分が感じていること、
身の回りのようすなどについて書いてみようとおもった。


ちなみに現在、福島県内の放射線量は計画的避難地域に次いで
福島市郡山市が高い数値です。
福島県内の小中学校等の放射線量マップ

  • 放射線に対する意識の移り変わり

原発に関するトラブルが伝えられ始めたころ、
放射線に関する情報がかなり少なかったことと、
余震活動が激しかったこともあり、自分も自分の周りもほぼパニック状態。
マメールやデマ電話もかなり出回っていた。


さらに事態が深刻さを増してきた14・15日ごろ、
家族と避難について具体的に検討したし、実際に避難した人も多い。


職場は余震や燃料不足もあり、業務を続けることが困難であるとして、
3月16日より約1週間の自宅待機となった。
12日からの1週間ほどは、ネットでも実際の知り合いからも、
「町内で自分しかいないんじゃないかと思った」という声が多かった。
それぐらい、街中は人影が少なく、とても静かになっていた。
とはいえ、私はほぼ屋内退避に準じた生活を送っていたので、
そのころの外の様子がどうだったのかはあまり分からない。


2週目から仕事が再開。
3月中はガソリンが極端に不足していたので
近所に住む同僚と乗り合わせて通勤していた。
車内で原発福島県の今後や放射線の影響について話し合ったし、
やっているお店や、売っていた食べ物などの情報交換もできて
この乗り合わせはかなり有意義だった。


街の中には人の姿が戻りつつあったけど、
子どもたちの姿はほとんど見かけなかった。
子どものことは家から出さずにいたか、避難させていた人が多かった。


レジに並んでいた時、後ろのギャルママたちが、
「○○ではヨウ素配ったらしーよ」
「郡山でもやってくんねーかな」
「あんたウチより若いんだからあんま外とか出んなよ。気を付けなよ」
なんて、ごくふつうに会話している感じ。


ただ、4月に入って、子どもたちの学校が始まり、
仕事も震災前のペースに戻りつつある今、
放射線に対する警戒は全体的に緩まりつつあるような、
それともマヒしつつあるような、開き直りつつあるような、
そんな雰囲気も出てきている。


数日間、つてをたどってガイガーカウンターを借りることができた。
家の外の土のある部分は各学校の調査とほぼ近い数値。
木造の家の中ではほぼ半分から3分の1ぐらいになる。
鉄筋の建物だと、1割〜2割程度。

週の大半を自宅と職場を往復するとみて積算量を考えると、
一年間、このパターンで生活をするとして、10mSvには届かないぐらい。
ブラジルにあるガラパリという自然の状態で高放射線が出ている地域がある。
そこもだいたい年あたり10mSv。現地ではリゾート地として有名らしい。
それを根拠に、ここで暮らすのは何とかアリかなと自分なりに納得した。
もちろん、天然の状態であるのと人工的な場合とは条件違うし、
内部被曝については未知数だし、ノーリスクではないという覚悟もしている。

  • こどものこと。

街中では次第にこどもたちの姿を見かけるようになってきた。
大概のこどもはマスクをしているけど、
中学生、高校生と年齢が上になるにつれマスク率は下がる。
高校生は自転車で学校に通っているコも多い。
元々、このあたりは公共交通機関が発達していなくて、
バスなどで通学するのはとても制約がある。


こどもたちの居場所である、公園や校庭、おそらく草地などは、
放射線量は逐次発表されいる各地域の測定値より数倍高い。
そして、これから10年、20年かけてどのように放射線量が推移するか。
もし、これからも当分、今ぐらいの強さの線量が出るならば、、
やはり、じぶんにこどもがいなくてもそれはすごく考えてしまう。

大人たちは口をそろえたかのように言う。
「私たちはいいんだけれど、若い人たち、こどもたちが気がかり」だと。

大人なら、家に1日いるのもさして苦にはならないし、
気分転換に車などで出かけることもできる。
でも、こどもはそうはいかない。
こどもが外で元気に遊ぶ様子を、スポーツをする姿を
今は、ほほえましいものとして見守ることができない。

こんな状況なのだけど、私の知人は不妊治療を再開した。
この福島で子どもを授かり、育てたいと切望している。
彼女は医療職なので、放射線の人体への影響についての知識がある。
周囲からの助言も得られている。
以前よりは病院は混んでいないというけれど、やはり患者さんはいるそうだ。
子育てにはこの先、様々な不安と困難が予想されるこの福島で
こどもを授かり育てていきたいと望んでいる人もたしかにいる。


私は、今から子どもを持てるかどうかはかなり厳しい年齢。
持とうという"努力"も、パートナー探しを含めて積極的にはしてこなかった。
初婚年齢が低く、全国でも出生率が上位に入る福島では
これまでもけっこう風当たりが強い立場だった。


ただ、今この状況になってみて、
過去から命を引き継いでこの世に生を受けたというのに
こどもを持とうとしなかったのは生き物として傲慢だったな、
と、痛感するところでもあり。
このあたりは、うまく言いきれませんなぁ…。

  • 福島県外で受けるかもしれない言動とか。

報道でもいろいろ言われているし、知り合いが実際にいわれた事もあって、
正直なところ、福島ナンバーの車で福島県外に行くのはちょっとこわい。


あと、ネットなどはどうしてもしょうがない面があるんだけど、
福島県民がリスクを知らない無知で憐れな人々みたいに言われていることがつらい。
いま福島に残っているのは、残らざるを得ない事情がある人もいるし、
残って放射線で受けるであろうリスクを承知の上で、
福島に暮らし続けることの大切さを選んだという人もいる。
それを、知りもしないのに人でなしみたいに言っちゃってさ…、って。


こうなってくると、今後この先長いこと、
何かを言われたり、されたりするっていうのは覚悟の上で、
うまくやり過ごしたり、対応するすべを身につけたほうがいいんだろうな。


その一方で、ネットを通じて県外の皆さんが福島について関心を持ってくれたこと、
たくさん心配してくれて、励ましてくれたことが大きな支えになってる。
ほぼ籠城状態だった時は周囲の人たちもかなり精神的に追いつめられていたので、
ネットで外の世界に繋がれたことでなんとか自分を保てた。
このネットの回線は、私の心のライフラインです。
とても感謝しているし、今後も頼りにさせていただきます。

  • "白か黒"ではなく、グレーに染まったその濃淡の中に。

放射線についての考え方は福島県民、そして郡山市民、人それぞれ。


今の郡山の放射線量は全く影響がないだろう、
なんていう人は少なくとも私の身の回りにはいない。
ただ、とてもナーバスになっている人もいれば、
なんかはあるかもしれないけど、考えてもしょうがないしね、まで、
人によって考え方の差が広がりつつある時期に来ている。


家庭菜園はやろうかよそうか、(さすがに露地のハーブはあきらめた…)
親戚や知り合いの作ってくれた野菜は検査していないけれど大丈夫かどうか。
町内や職場で草むしりや野外の清掃活動をすることになったけど
参加するかどうか、止めさせようかどうか。
感覚が違うから摩擦がそこここで生まれつつある。


このあたりを、じっくり乗り越えながら生活していくしかないんだろうな。


放射性物質がすごく小さな"黒"の点々だとして、
郡山に生きる私たちの身の回りはその点々でグレーの濃淡に染まっている。
真っ白な部分はないかもしれないけれど、
できるだけ淡いグレーの場所を選んで暮らしていく。
そして、できるだけ淡いグレーに近付けていく。


そういう考えでこの先もこの郡山で暮らしていきたいとおもう。

一サッカーファンとして、東京電力へのメッセージ。

 一サッカーファンとして、ナショナルトレーニングセンターJヴィレッジと、そこを活動拠点とするマリーゼJFAアカデミー福島という形でこれまでの日本サッカー界の発展に寄与していただいた東京電力へ深く感謝しております。
 また、福島のサッカーファンである私にとって、Jヴィレッジはたくさんの思い出が残る場所でもあります。
 現在進行中である各計画が滞りなく進み、現地で対応に当たっている方々ができる限り安全に作業を進められることを願ってやみません。

福島のみなさんへ、原発についておもうこと。

昨晩はガラケーで得られる限定的な情報のみで
私自身かなり不安でしたし、
身の回りでも風評が広がりつつあります。

福島はネットを使える環境にある人が元々少なく、
風評が広がりやすい土壌があるかもしれません。
ネットが使える方は風評に流されることなく、
身の回りの方に情報を伝えていって欲しいと思います。

東京大学理学系研究科の早野龍五教授が
専門的な立場からそのつど、
原発の現状に対する考えを書いています。

http://twitter.com/#!/hayano

知らずに不安でいるよりも、原発について正確に理解していくことが、
福島のみんなに今必要なことだと考えます。

みなさんご無事ですか

郡山市内は建物や道路に損傷があるものの、
なんとか日常生活を送っています。
選手やスタッフのみなさん、
応援仲間の皆さんは無事でしょうか?

東北各地の被害は非常に大きく、
他のクラブの関係者の皆さんも心配です。

今はまだなにもかもがわからない状況ですが、
みなさんとまた集いサッカーを楽しめる日を信じて、
自分にできることをしていきたいと思います。

日本体育協会・日本オリンピック委員会創立100周年記念シンポジウム 福島会場(ビッグパレット福島)


知人のお誘いでこのシンポジウムに参加してきました。
[PDF]日本体育協会・日本オリンピック委員会 創立100周年記念シンポジウム 福島会場
一連のシンポジウムは、今回の福島会場から始まり、京都、広島、そして東京で総括となります。
会場はざっと見て数千席ぐらいはあったでしょうか。
記念式典的な催しということで、東日本の各都道府県の競技関係者、体育協会関係者の皆さんが参加者の大半を占めていたのではないかと思います。
福島会場では「スポーツによる「公正で福祉豊かな地域生活」の創造」というテーマにそった講演とパネルディスカッションが行われました。
少しずつまとめていきます。まずは第一弾。

基調講演「夢があるから強くなる」川淵三郎JFA名誉会長

  • JヴィレッジJFAアカデミー福島がある福島。アカデミーからはFC東京でプロとなった選手、シャルケユースに入った選手がいる。
  • クラマー氏の提言によって1965年に開幕したJSL。大学での活動が中心だったスポーツの強化が、企業スポーツへと移り変わっていった。
  • 限られた代表選手を集中的に強化するのが当時のやり方だったが、競技力、人気ともに低迷の一途をたどっていった。
  • ワールドカップを日本でやらないかという話がきたあたりの絡みで「私も独裁者とか言われますが、アベランジェはもっと独裁者」みたいなネタ?が。会場、けっこう沸いてました。
  • 1960〜1980年代は企業スポーツ全盛の時代。サッカー部には2〜10億円の予算が投じられていた。
  • 25年間JSLをやってきたが、サッカー界に発展は無かった。そのため、徐々にステップを踏むやり方では発展は望めないと思った。プロ化にあたって最初から大きなハードルを設け、加盟したいクラブにそれをクリアさせるというやり方をとった。
  • フジタか住金、どちらを加盟させるか。フジタだと神奈川にクラブが4つになる。とはいえ、住金のホームとなる鹿島は条件が厳しかったが、次々と出された条件をクリアしていった。
  • 鹿島のボランティアの行動指針。不快感を与えない。クラブへの印象のマイナスにならない。自覚を持って行動する。何かを生み出すのではなく、嫌な気持ちにさせないという無理のないラインを守る。
  • Jリーグができた街では家族や子どもとの会話が増えたという効果が大きい。
  • 子どもの体力低下について。全力で体を動かして遊ぶ機会が少ないため、脊柱起立筋が発達しない。姿勢が悪く、力が入らない。体の動かし方がぎこちない。
  • JFAではU6世代に体を使う運動をさせる活動や校庭芝生化などの活動を通して子どもの体力作りについて働きかけている。また、小学校に専科の体育教師が配属されてほしい。身近に専門の指導者がいることでスポーツに親しむきっかけとなり、アスリートのセカンドキャリアとしてもいいのではないか。
  • 子どもばかりでなく、老人ホームなどにも芝化を進めていきたい。地域のリーダーを中心としたスポーツの環境が作られていってほしい。

感想

この記事をまとめるにあたり、ざっくりぐぐってみましたら、川淵氏が同タイトルでされた講演のまとめを発見しました。
yocchi-football.net 【講演メモ】川淵三郎氏「夢があるから強くなれる」
導入部分にあたる、JSLからJの創成期のお話は講演をする際のテンプレート的な内容に当たるのでしょう。
何度か見聞きした事のあるJ創成期までとそれからのお話ですが、実際に当人の口から聞く事でまた新たに感じるものがありました。
Jリーグを目指すクラブの中には、身の丈の継続の先にではなく、まず大きなハードルを飛び越えてプロになることで認知されていく、というクラブがこれまでに結構あったのですが、Jを始めるにあたっての考え方と似ていることに気付きました。Jリーグへの入会を目指しているので当然といえば当然なのですが。
Jが地域密着という形で見る側に主体性を自覚させたことは当時の日本社会においては画期的なことであり、各地域やスポーツに留まらない各分野に大きな影響を与えました。
その意味を再度深く理解できたように思います。
そして、Jが始まってからまもなく20年となる今、改めて身の丈の継続の先に生まれる発展の可能性を考える時期なのではないか、そんなことも考えました。