何度かとりあげているが、山田ズーニーさんのコラム
http://www.1101.com/essay/
は自分の抱えている課題にとてもぴたっと当てはまることが多々あって、勝手にシンクロニシティを感じてしまっている。
それだけ現代のコミュニケーションにまつわる問題は普遍的なのだろう。
理解されたい、理解したい、なのに言葉は難しい。
怒りたくなんかない、ケンカしたくなんかない、ギスギスしたくなんかない。
分かってもらえると思って放った言葉が受け止められなかったら、という恐怖といったらない。
だけど、恐ろしくて恥ずかしくてしかたなくても、やっぱり、問いかけてしまう。

分かり合いたいから。共感したいから。

今、ちょうど教育テレビで彼女のシリーズをやっているので、*1興味のある方はぜひご覧ください。

いま、いろんな問題が起こっているけれど、
その原因を洗い出して、  
グループわけし、
さらに、その元を、さらに、その元を……、
とたどっていくと、
「コミュニケーションの問題」に
行き着くんじゃないだろうか?
しかも、すれちがっているのは、「言葉」だ。
と私は思う。
もっと言えば、たくさんの人が、
「自分への理解の言葉」に飢えている。
理解を注いでほしいところに、
必要な理解が、「言葉」として注がれない。
それが、「寂しさ」となり、
それが、つもって、
人の判断力をくもらせ、
誤解や、すれ違い、摩擦を生んでしまう。
それが、また、「寂しさ」の種を増やしていく。
たしかに、コミュニケーションは言葉じゃない、
言葉じゃない部分が大きいのだ。
それでもやっぱり、
どうしてか、寂しい目をし、
いま、私たちが求めているのは
「言葉」のように思えてならない。
だまってそばにいて、わかりあえる。
にしては、私たちは、忙しすぎる。
短い時間に凝縮して伝えあえるのは言葉だ。
だまって、わかりあえる。
にしては、私たちの距離は遠く、寒い。
離れていても近く届き、何度も反芻できるのは言葉だ。
口では言わないけど、わかってくれている。
そう信じるには、
わたしたちの内面はちょっと複雑だ。
わたしたちの内面は、
生まれたときからたくさんの情報で膨れ、
複雑に編み上げられている。
他の人と自分の違い、
それは「わずか」かもしれないけれど、
その「わずか」は、複雑に繊細に編まれている。
その網目をかいくぐって、
心の奥底まで届いてくるのは、やっぱり言葉だ。
だまってそばにもいてほしい。
何にもいわずにわかりあいたい。
それでも、やっぱり、「言葉」がほしい。

(中略)
みんな、いい仕事をしようとおもって
仕事のゴールを描いて、職場に集まってくる。
人とのコミュニケーションをとる。

ところが、
自分のやってることがあまりにも理解されないと、
いつのまにか、「わかってくれ」がゴールになって
しまっている。

相手と自分の、
自分と会社の、
ゴールがずれてしまうと、
コミュニケーションは迷走する。

そこをプロじゃないと否定するのもいいし、
厳しくゴール設定を確認し、押し付けるのもいいだろう。
でも、へりきったお腹では、山に登れない。
みんな理解に飢えている。ペコペコだ。
そこに、おにぎりひとつ、栄養を与えあって、
さあ、頂上をめざそうか、という行き方もある。

だから、仕事や、日常や、さまざまな場面で、
相手に対する理解を、まず、
きちんと言葉にして伝えるということは、
多大な可能性を持っていると私は思う。

それがあって、心の空腹が満たされてこそ、その先に、
相手の持つ、認識力や判断力、
コミュニケーション能力は生きてくる。

私は本当に言葉がつたない。
ネットならまだ考えながら表現できるからいいんだけど、(それでも意図と実際の文章はイコールにはならない。べつにそれはそうすべきだと言うわけでもないけれど)話し言葉だと思考と言葉のテンポがどうも合わない。
それでもやっぱり誰かと分かりあいたいから、今日もまた、こうやって文をつづり、つたない言葉を放っていかずにはいられない。

*1:関係ないけどBGMにグラナダテレビのホームズのテーマ曲が。懐かしい