ことばのちから、ネットの怖さ。自戒。

昨日、本も買ってみて、あらためておもった。
山田ズーニーさんのことばは、思いを伝える苦しみを感じたとき、いつも胸に染みとおるなぁ。
特に今は思うところがあってここを何回も読み込んだ。「おとなの小論文教室。」より。

批判は両刃の剣と言われる。
それぐらい、自分の理解力・論理性を、
一瞬にして、露呈してしまう高難度の技だ。
だから、強靭な論理性が求められる法学部などで、
反論や、再反論の小論文入試が課される。

逆に、批判の適確さで、
一度に相手の信頼を得ることがあるのもうなずける。

批判を甘く見ていると、どんどん足元をすくわれる。
基本は理解・読解と心得て、慎重に臨みたい。
先にあげた3つの風景のように、
責めていい、というモードになったとき、
人は、慎重さを欠き、
本来持っている理解力を生かせない。

ネットで、見知らぬ人とメールを交わすことは、
ネットの暗闇で、手探りしあって、
ようやっと人と人が出会うようなものだ。
そして、多くの場合、自分と相手と、
それを見守っている観衆とも出会うことになる。

自分が批判のターゲットに焦点を向けている、
まさにそのとき、相手や、まわりに、
自分の理解力や思考力、
自分というメディアの信頼性を語っていることにもなる。
伝わったのは、
結局、どんな自分だったろうか?

ことばの力、それはネット上ではとても大きく、時に凶器となって人々の思いを切り裂きもする。負の感情については、おそらく本人の意図した以上に。
よく冗談めかして言われることだけど、ネットに何かをUPすることって、ワールドワイドに自分がどんな奴か晒しちゃうことなんだよね。
最近読んだうまいなぁとまず思って、次に心底怖いとおもった例え。
他者を意識しないネット上での自分語りは、本人は四方鏡張りの部屋の中で自分の姿を鏡に映しておかしな踊りをしているつもりが、実はその鏡はマジックミラーであることを本人だけが知らず、衆人環視の中踊っている、というもの。
ネット暦なんて自慢にも何にもならない。これをよんだ時、以前、自分がやったフレーマー的*1掲示板上でのふるまいを苦々しく思い出した。
ネットの力はすばらしい。正の感情、行動を生む時は。
では、負の感情、行動を生む時は?
そして、それが世界中の人々に、永遠に、さらし続けられる事の意味。
ここのところを軽んじた発言は批判とは言わず中傷というのだろう。
ことばのもつ重みをいま、深く考えている。

*1:まあ議論を煽る人、食って掛かる人みたいな意味。